勉強というよりは研究をしている

注:だらだらいきます。


人によって「勉強する」という言葉の指していることが違うんじゃないかな、と思います。

自分は仕事以外の時間にも、参考書を読んだり、コードを書いたり、それをしていない時間にも「あ、あそこをこうすればいけるかな?」みたいなことを考えるわけなんですが、そういうことを話すと「勉強熱心ですね」と言われたりします。

仕事の時間の中でも、同僚と会話する中で、話の掘り下げ具合というか弾み具合には違いがあります。 特に「こうなんじゃないかな〜」というような、課題を検討・解決するような会話になった時に色々な反応がありますね。

  • 「そうなんですか?」(知らなかった仕事のルールを確認するような)

  • 「ですかね〜」「はぁ・・・」(ただの相槌)

  • 「じゃあそうしますね(サッ」(特に仕事の方針の話のとき)

SNSとかで見かける中にも「周りの人にももっと勉強してほしい」「自分の提案について、意見がもらえない・ついてきてもらえない」などがある。だいたい、「そういう層」と「そうでない層」に二分されているような印象を受ける。

そのなかで、自分に対して「なんで勉強してるの?」って聞かれた時に、どう答えるかな〜と考えた時に浮かんできたのが「自分は勉強しているというよりは、研究をしている気分でいる」という言葉でした。

なんで自分でもこう考えたのかわからなかったので、今回は根拠を探しにいきます。

研究をしている気分、というのがあっているか調査

ウィキペディアで「勉強」と検索をしたが、なんと「勉強」というページがない

「学習」に転送されました。

学習 - Wikipedia

経験を通じて行動に持続的な変化が生じる、ないし行動パターンが変化する現象のことを学習と定義する。

偶然にもニューラルネットワークの学習という言葉に合点を感じたけど、じゃあ勉強ってなんだ。

kotobank.jp

2 物事に精を出すこと。努力すること。

とあるので、どうも「勉強」=「学習」ではなさそうですね。

一晩かけても身につかないかもしれないし、むしろ「色々努力した結果、今の状態が一番」という可能性もある。あと、学習のページにある「経験」という言葉もちょっと広くて、たとえば「実際にプログラムを書いていたか」と「こういうプログラムを書いたらどうかな、というアイデアを時間をかけて考えていた」というのでは、また意見が二分しそうな気がする。自分は、ちゃんと理論や過去経験、事例収集などができれば、十分経験であると思います(自分がそんな考え方なので、ただの言い訳です)。

1 学問や技芸などを学ぶこと。「徹夜で勉強する」「音楽を勉強する」

ともあるので、「学習」は「勉強」の(真?)部分集合ではありそうですね。

じゃあ残りの言葉、「研究」とはいったい。

研究 - Wikipedia

ある特定の物事について、人間の知識を集めて考察し、実験、観察、調査などを通して調べて、その物事についての事実を深く追求する一連の過程のことである。

読んでいて、学習と大きく違うところは「教師の有無」ですね。ここは、だいたい想像していた通りの印象です。 仕事について私が日々考えていることは、もちろんプログラム言語を覚えるような、道具の学習というものも含まれはしますが、多くの場合は「正解のないものに対してアイデアを考えて検証する(目の前に実装するかシミュレーションするかは別として)」という感じです。

なので「研究をしている気分」というのはあながち間違ってはなさそうです。いやーひと安心。

  • 基礎研究 特別な応用や用途を考慮せず、新たな法則や定理などの「発見」を目的にして行われる研究。純粋研究とも呼ばれ、応用研究の核となる。
  • 応用研究 基礎研究の成果を応用し、特定の目標を定め、実用化の可能性を確認する研究。すでに実用化されている方法に関して、新たな応用方法を探索する研究も含む。
  • 開発研究 基礎研究および応用研究の成果を利用し、科学技術(装置、製品、システム、工程など)の創出を目指す研究。既存の科学技術の改良を目的とする研究も指す。

という風にあります。

私はシステム屋なので、普段は「こういう業務は、こういうモデルに落とし込めるかな」「でもトランザクション単位がこういう場面では分けないとな」「こういう技術構成なら今いるメンバーを最大限に活用できるかも」といったことを日々妄想しているわけなんですが、それは「応用研究」あたりになりそうですかね。

なぜ研究が苦にならないか

ここがおそらく人によって大きく違うポイントになるんだと思います。

なぜ自分はそういうことを考えているのか、それはもう一言「楽しい」につきます。

今の所の自己分析結果として、自分はどうやら「面倒がなくなること」「美しくなること」「みんなが前向きになれること」それによって「みんなが幸福になること」が好きみたいです(宗教のようだ)。その所以まで考えるのは、また時間かかりそうなので今日はやめときます。

ただ「好きこそものの上手なれ」、あれは嘘です。ぜんぜん上手にならないので。

上手にはならないんですが、毎日考えても全く飽きないわけで、費やすリソースは大きくても全然平気になります。たぶんそういうことなんですよね?上手にならなくてもいいんですよね?偉い人なんとか言ってください。

irony9901.hatenablog.com

以前に「参考書めくっててワクワクしないなら、その資格持っている必要ない」って書いてたのを思い出しましたが、多分同じですね。

資格持ってても、楽しくないことならその資格を活用すること自体が苦になってきます。結果、役に立たなくなるわけです。

勉強も研究も必須ではないけど、各々「好きなもの」があることに気づく

正直、自分の仕事はあんまり楽しくなくて、正直生活のためにやってる、という人はいると思います。自分の熱意とのギャップに腹が立つこともあると思います。それぞれ、自分の周囲にはそういう人たちがいます。そのとき、仕事でも趣味でも、何かチームで活動をするときは、各位にぜひ検討して実践してほしいこと2つがあります。

1. 自分の好きなこと、もしくは、チームに対する自分の「スタンス」を共有する

これによって、熱意のある人からの押し付けのようなことがあっても、ちゃんと意見を交わすことができます。 逆に熱意のある人は、なんで熱意があるのかを周りに伝えて、意見を受け入れてもらえる土台を作ることが大事そうです。

土台を作る前にあんまり攻めすぎると、土台を作る暇さえ与えられない可能性があるので、ちょっとここは、早めに気づいていきたいですね。

2. 互いを「邪魔する」のではなく、互いに「気づいてもらう」ことを考える

これも、互いに不幸にならないために大事なことだと思います。 「価値観が違うものは違うんだからしょうがない」というイメージですね。 それに納得するために、ちゃんと互いのスタンスを共有することが大事なわけです。

「邪魔をしない」ということについては、教育の観点からも必要性を感じていて、前に次のようなものも書いてました。

irony9901.hatenablog.com

何が言いたいかというと

へんに努力を強いることを他人に押し付けるのではなく、興味がありそうなところに届ける、興味がなさそうなところには「役割分担」という形で「お互い様」にやっていくことが、なんだかオトナな対応な感じであり、すべて私が「今までこういうことができてたらよかったな〜」と打ちひしがれていることです。

酒飲んでスマブラして寝よ。